「私、悪いですか…? 正直に言ってください」
観ていると、時々そういう風にきかれます。
あるいは、「良いですか?」と。
そうするといつも、良いとか悪いということではなくて、
ただその形が在るというだけです、とこたえます。
良い・悪いでこたえることがあるとしたら、
その人本来のものが活かされていれば「良い」
本来のものが活かされていなければ「悪い」
というかもしれないけど。
例えば「あることにパッと飛びついて短期間で終わった」という出来事があったとして。
その人の本来の性質に「スピード感、好奇心が強い、飽きっぽい」というキーワードがあれば、
もともとの気質に沿った行動なので悪いとは言いません。
素直に自分を表現できていれば、終わった後にスッキリ感が残っていはず。
もしその過程や終わった後で、感情的にひっかかる部分があれば、
顕在意識より奥にある気づけていない自分の本当の願いや想い、
見えていない周囲と自分の捉え方のちがいなどが考えられるので、
もう少し解いてみましょう、と言うかな。
同じ出来事でも本来の性質に「慎重、長期的に物事を見る、地道」というキーワードがあった場合、
自分のやり方を見失っている可能性があります。
そうすると、それが運気、時期的なものなのか、
いつかどこかでできたねじれが今に影響を与えているのか、
どうしてそうなったかを解いていくようにします。
「愛の視点」を持ってみれば、
どんな状況にいる人も、
その人にしかわからない、そこに至ったまでの経緯というのがあるという前提で観るので、
優しく話をきくことができます。
今の時期の運気だけで解決できず、ちりが積もってできたねじれには、
状況や環境のせいだけではなく、人間の弱さやずるさや醜さなども関係していると思いますが、
それでもそれらもみんなの波動に流れている「愛の側面」だと捉えるので、
少なくともそのことによって切り離す気はとくにありません。
それから運気や性質とは別の条件で、
本人が本人の本来の願いをしっかり受け止めていないことで状況が辛くなってる場合があるように思います。
幸せになりたい。
恋をしたい。
楽しく過ごしたい。
お金がほしい。
友達がほしい。
そういう根っこにある願いに、自分で言い訳やフィルターをかけてしまっています。
幸せになりたいけれど、その為には今を苦しまないといけない。
恋をしたいけれど、そんなに簡単にできることではないので、謙虚な気持ちでいつか現われる運命の人を待ちます。
楽しく過ごしたいけれど、罪悪感を感じる。
お金がほしいけれど、でもそんなになくてもいいんです、なんとか生活できれば。
友達がほしいけれど、自分はつまらない人間だから。
自分の願いに素直な人は、
「幸せになりたい」
自分の好きなことはなんだろう。行きたい場所はどこだろう、会いたい人は誰だろう。
幸せを感じられるために、自分で具体的に動いていくようです。
「恋をしたい」
だれかに紹介してもらえないかな。自分磨きをしておこう。
恋をした時にわくわくするような想像を働かせています。
「楽しく過ごしたい」
○○ちゃんは今なにしてるかな、お茶に誘ってみよう。次のお休みに行きたかった場所へ行ってみよう。
自分から動きます。
「お金がほしい」
得意なことはなんだろう、人に求められることとはなんだろう。
自分にできることでお金につながる能力を自分の中から探しています。
「友達がほしい」
人が集まる場所に出かけてみる、自分から話しかけてみる、人の話を聞いてみる、自分のことを話してみる。
願いは同じでも、その受け止め方がちがうようです。
自分からのアウトプットがちがうようです。
「言い訳」をするのか
「創造」をするのか
どっちを選んでも無料で、
今の状況がどうであっても、
いますぐできることばっかり♪