愛の視点、誰でもみんな赤ちゃんでした


 

セラピーをしている時に経験するある視点が

もしかしたら誰かの役に立つのではないかと思ったので書いてみようと思います。

 

 

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不思議だなぁと思うのだけど、

占いやセラピーや催眠を行う際に、

ご本人を目の前にし、お誕生日などを伺った後、意識がぱちんと切り替わります。

 

 

感覚でいうと、時間を消失する、という感じです。

時がなくなり、今ここ、というものだけが拡がっていきます。

 

 

その状態で、私なりに観させていただいてから、

それを言葉にする時にある気持ちを意識します。

 

 

 

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その気持ちを「愛の視点」と名付けてみることにします。

 

 

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当然ですがどんな方でも今ここで生きているということは、

赤ちゃんだった頃があるということ。

 

 

みんな同じようにはだかんぼうで生まれてきて、

そのやわらかく傷つきやすい肌を木綿の布が守ってくれた。

そのもろい存在をお母さんが身体も心も使って守ってくれた。

 

みんな同じように、泣くという手段だけを持って生まれてきて、

笑うことを知って、怒ることを知って、いつしか許すことを覚えた。

 

日々の生活を覚えて、他人と関わることを覚えて、

自分というものを知っていった。

 

自分らしくできたこと、自分らしくできなかったこと、

想像どおりだったこと、想像もできなかったこと、

様々なことをその人なりの受け止め方で時間を旅してきて、

そして今、目の前にいるということ。

 

 

ここに来るまでにその人が一人で泣いた夜を誰も知らないし、

その人が一人で青空を見上げて見つけた希望を誰も知らない。

 

口に出してきたこと、口に出していないこと、

我慢していること、勇気を出したこと、

良いことをしたこと、悪いことをしたこと、

謝れたこと、謝れなかったこと、

ありがとうと言えたこと、ありがとうと言えていないこと。

 

 

一人の人には、無数の、その人にしかわからない気持ちがあるんだと思います。

 

 

そういうことを想うと、誰のことも、簡単には、良い悪いだけでは話せなくなる。

人一人が生きて今目の前にいるということの膨大さを思うと、誰も簡単に計れなくなる。

 

 

共通しているのは、

みんなやわらかくてあたたかくてもろい、

赤ちゃんだったということ。

 

そしてそれは同時に、

その人の存在を命を賭けても守りたいと思った人がいる(いた)ことを証明します。

 

 

そこを想像すると、目の前に座った人に、

まずは敬意を払って話そうと、自然と思えます。

そして自分にできることを少しでも伝えることができたらと自然と思えます。

 

 

 

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一緒に想像してみましょう。

 

 

今、ごつごつしてるおじさんも、怖そうなお兄さんも、

つっぱってるおばさんも、澄ましたお姉さんも、

みんな誰かに守られてようやく生きられたやわらかい赤ちゃんだったこと、

 

苦手な人、嫌味な人、いじわるな人、失礼な人、

そんな人にも、命をかけても守りたいと思っているだれかがいること、

 

 

そしてなにより、あなた自身が、やわらかい赤ちゃんだったこと。

守られて生き、見えないところであなたに命を懸ける想いを持っているだれかがいる(いた)こと。

 

そのことを思えば、

他人に向けていた視線のどこに、余計な負荷がかかっていたかが観えてくるはず。

そして自分自身に向けていた視線のどこに、無理な負荷がかかっていたかもきっと観えてくるはず。

 

 

気づいた「負荷」の部分は、きっともう取っ払ってもいいと思います。

 

 

それが、

他人や自分や人生や生や死や、

(集合的無意識の領域で言えばそれらすべては「全体」という

たった一つのものにまとめられますが)

そういった「分離」や「時」を通して現れるすべてのことに対して、

 

 

 

「信頼する」

 

 

 

ということなのだと思います。

 

 

 

 

それから最後に。

「他人」というイメージの中からよく抜け落ちるとても身近で大切な人が。

 

親です。

 

親も、当然一人の人間で、

子供を生むより前から、そもそも自分の人生を生きていたわけで。

もろい赤ちゃんだった時にはおぎゃあおぎゃあと泣いて、

だれかの体温を求めたこともあったのでしょうね。